Great Zimbabwe, 11th–15th century · Fact sheet · 時空ツアー 24
グレート・ジンバブエ 事実の表
アフリカ南部の高原に、モルタルを使わず花崗岩を積んで築かれた石の都。丘の遺跡、大囲壁と円錐形の塔、谷の住まい、凍石の鳥の像、インド洋につながる交易、そして「アフリカの人々が建てたのではない」という植民地時代の誤った説までをたどるツアーの調査台帳です。各項目に確かさの印と出典を付けています。
舞台 11〜15世紀(最盛期は14世紀ごろ) 場所 ジンバブエ・マシンゴ州 座標 20.2675°S 30.9338°E 更新 2026-10-16
事実の表
テロップ台本
最盛期といま
出典
制作記録
すべて
確か
説・推定
わかっていない
「確か」はユネスコ、博物館、学術資料の記述や現存する遺構で確かめられるもの。人口、建てた順、使われ方、衰えた理由のように研究者の解釈や推計が入るものは「説・推定」にしています。S5 は要旨、S6 は要旨と本文の一部で確かめ、S7 は原文未読です。S8・S9(Wikipedia)に頼っていた項目は、2026-10-16 の見直しで S10〜S14(南アの公的機関、PBS、学術誌、新聞報道)で裏づけ直しました。円錐形の塔の寸法と中国磁器の経路は、いまも S8 だけが出典です。
ナレーションなし・テロップのみ。1場面11〜14秒、全11場面で約2分の試作版です。本番の約9分版は、各場面のテロップを2〜3枚に増やして伸ばします。
最盛期(14世紀ごろの推定復元) 人口は1万人を超えたとされる(説)
丘・大囲壁・谷に、土(ダガ)の壁と草ぶき屋根の家が建ち並ぶ(屋根の形は推定)
丘の東の囲いでは、凍石の鳥の像が柱の上に立つ
金と象牙をインド洋岸へ送り、中国やペルシャの品を得ていた
石垣は花崗岩をモルタルなしで積んだもの。この点はいまも同じ
いまの遺跡 1986年 世界遺産 · NMMZ が管理
石垣の多くと円錐形の塔は残る。家は土の床の跡などだけ
鳥の像は柱の上になく、持ち出された像は2026年に最後の1体が国に戻った
囲いの中や谷には木が生え、見学の道が通る
鳥は国旗と国章に描かれ、国名もこの遺跡からとられた
比べる点 最盛期 いま
大囲壁の外壁 周囲約250m・高さ最大約11m(確か) ほぼ同じ形で残る(確か)
円錐形の塔 二重の壁のあいだに立つ(確か) 高さ約9mで残る(説・推定)
家 ダガの壁の家(確か)。屋根の形は推定 床などの跡だけ(確か)
鳥の像 丘の東の囲いなどで柱の上に(説・推定) 柱の上にはない(確か)
人口 1万人超(UNESCO)、1万8千〜2万人の古い推計、1万人以下とする新しい調査(説・推定) 遺跡に住む人はいない(確か)
まわりの景色 森や畑の様子はわかっていない 木の茂るサバンナ(確か)
大きさを並べると
大囲壁の外壁 周囲 約250m
大囲壁 長いほうの径 約100m
外壁の高さ(最大) 約11m
円錐形の塔 高さ 約9m
外壁の厚さ(基部) 最大約6m
ツアーでは「最盛期(14世紀ごろの推定復元)」と「いまの遺跡」を切り替えて見せます。石垣の形と配置、丘と大囲壁の距離はツアー用に整えた模式です。家の屋根、人の暮らしの様子、鳥の像の形は自分で描いた模式で、写真や美術作品を写したものではありません。
2026-10-10
題材決定:時空ツアー 24 として、グレート・ジンバブエ(11〜15世紀)を選定。見せ場は、モルタルなしの大囲壁と円錐形の塔、凍石の鳥、そして植民地時代の誤った説。
2026-10-10
企画の芯:億ションのルームツアー風/ユネスコ・博物館・学術資料を土台に、家や暮らしの様子は推定で補い画面に明示/植民地時代の説は「誰が何を言ったか」を事実として示す/人は描かない/まずは非公開。
2026-10-10
調査:ユネスコ世界遺産センター、メトロポリタン美術館の解説(グレート・ジンバブエ大学の研究者による)、ブリタニカ、Wikipedia(補助)を確認。検索の回数制限と一部サイトへの接続制限で、学術論文と BBC 報道は原文を読めず、Wikipedia の要約を通して確認した。事実の表と台本11場面を作成。
2026-10-10
試作:3DCGのツアーを作成(ガイド/自由に歩く、最盛期といまの切替、確かさ表示、出典、録画モード)。
2026-10-10
保留:最後の1体の鳥が2026年に南アフリカから返還されたとする記述(Wikipedia)は、Iziko 博物館のお知らせで確認できず「わかっていない」のまま残した。
2026-10-16
見直し:別の担当が全49行(見直し後50行)と台本33文を確認。最後の1体の鳥は SAHRA の発表で2026年4月の返還を確かめ「確か」に。石の建築の始まりを「11世紀に人が住む」と「石垣は12世紀末〜13世紀初めとする説」に分け、大囲壁の100m×80mは日本語版のみの記述のため「説・推定」に。持ち出しは1889年に、植民地時代の項目は PBS・Antiquity 1974 などで裏づけ直し、人口の論文を PLoS ONE に差し替えた(S10〜S14 を追加)。